目的を達成するためには手段を選ばなくない
「目的を達成するためには手段を選ばない」という言葉ってよく聞きますね。
僕は今回、それとは真逆の
「目的を達成するためには手段を選ばなくない(=選ぶ)」ということについて考えてみた。
僕は大学の時、教師になるかどうか悩んだ時期があった。
教師になりたいと思った動機は、子どもに今後の人生で良い影響を与えたいという思いからだった。
これまで僕自身が出会ってきた先生の中で、魅力的な先生もいれば、正直どうなんだろうと思う先生もいた。
もちろん、自分にとって悪いと思った先生が必ずしも他の人にとって悪い先生というわけではないけれど、
生徒に良い影響を与えられる先生というのは、どこか型破りな印象があった。
僕自身、型破りな人が好きという性格だと言われればそれまでなのだが、
おそらく、ある種特殊な経歴を持っている先生に惹かれる生徒は多いはずである。
僕は型破りな先生になりたかった。
先生でありながら、先生らしくない先生。
例えば、学校のおかしな点をきちんとおかしいと言えること。
それに付随した確固たる根拠と信念を持ってること。
思えば、高校の時に出会った先生がまさにそういった先生だった。
自分の教育信念を持っていて、それを貫く。
卒業した時、「あの先生の教育を受けてよかった」と思える先生である。
さて、話が脱線ぎみなので、本題に戻そうと思う。
「目的を達成するためには手段を選ぶ」
僕は子どもに良い影響を与えられる大人になりたいという気持ちから、
卒業後は海外で働くことを目指した。
自分自身が一番成長できるフィールドは、好きなスポーツに関わる仕事で、なおかつ日々挫折と新たな体験を味わえる環境だと思ったからだ。
実際、そのような環境に身を置くことは自分にとってプラスになることは今も信じて疑わない。
ただ、自分が海外でスポーツに関わる仕事をしたいとなった時に、それを達成するためにどんなことが必要なのか、どんなことをクリアしていけばいいのかということが明確に頭の中で描けていなかった。
目的達成までの道のりをイメージできないことは想像以上にしんどい。
闇雲にゴールの方向がわからないまま進み続けている感覚。
情報を集めても、明確な方向性を見出すことは結局できなかった。
そこで思った。
自分が成し遂げたかった目標は海外でスポーツに関わる仕事をするということではなかったはずだ・・・
良い影響を与える"教師"になるため・・・
いや、違う・・・
根本にあったのは、子どもに良い影響を与えたいということだった。
目的はあくまで、子どもに良い影響を与えること。
そのための手段は海外で働くことや教師になることだけではない。
本来、もっといろんな可能性があるのだ。
僕は、手段を目的と見間違っていた。
いつの間にか教師になることが目的となり、さらに、そのための手段であったはずの海外で働くことが目的になっていたのだ。
だから、本来の目的を達成するための手段をややこしくしてしまった。
僕は現在、ITの力で子どもに良い影響を与えていきたいと思っている。
目的は変わらず、
手段はITに変わった。
そこで気づいたことがある。
手段は明確で、なおかつ進歩が感じられるものの方が良いということ。
つまり、積み上げることによって、目的の達成に近づいていることを実感できるものを手段にするべきだということだ。
自分が正しい努力をしているのかをわからないまま進むのはギャンブルにちかい。
ただ、そのような考え方で手段を選択した場合、危険なこともある。
それは、「誰もが考えつく可能性がある」ということだ。
誰もが考えつく可能性があるということは、必然的に競争率も高くなる。
人と違った手段を選ぶことで、目的の達成に近づくという側面もある。
手段を選ぶ際には、人と違った手段を選択する方が良いということもいえると思う。
他にも手段を選ぶ要因は、手段として今後も有効であるか、適切であり続けるかといったことも考えられるが、
とにかく目的を達成するためには手段を選ぶべきだと思う。
どこに力点を置くかは人それぞれだが、
積み上げることができるかどうかということに力点を置くのがよいと思う。